◎信心は高めるだけでなく、深めると言うことをせねば。それは、自分を見極めるということ。信心が目立って来るようになったら用心が必要。合楽の者は、謙虚が大切。KM
%1ある教会の信徒会共励会の感想のお届。合楽で良かったと、しかし、他教会がお粗末に見えてきたと見下げるのがいけない。
%2無学だから不自由するという話。親先生の突然の腹痛に英語でお知らせ。
%3田中定雄さんと友達のように話す人には、お礼を言いたいような気がする。人を軽く見ないということ。
%A親先生腹痛が止まらないことに対してお願いされたら、「バックボーン」とお声でお知らせ。
%Bお知らせについて。神様は、難しい言葉使われることがあると。日本語、英語、梵語、大和言葉。
%C茶席で田中定雄さんのことを「侘助」と。椿科の素朴な花。茶花として一番。
%J,Y高橋さんの車で三井教会参拝。
%Wどこに神様のおためしがあるか分からないの例話。光妙皇后、膿だらけの人を看病したら観音様に変わったお話。
%Z「はばかりながらしっぽけなし」頭でっかちのこと、
%Z「侘助」茶花。素朴なそれでいて一番の茶花。ここでは田中定雄氏のこと。
%Z「富士の山」「藤の花」目指すは富士の山、しかし心は藤の花という謙虚な心で。
%V
昭和四十三年一月二十日朝の御理解
X御理解第九十九節「無学で人が助けられぬという事はない。学問はあっても真がなければ人は助からぬ。学者が身を食ふとゆう事がある。学問があっても難儀をして居る者がある。此方は無学でも皆おかげを受けておる」
%Vこれは学問があるから信心が出来ないとゆうのではない。学問が鼻にかかる。俺は学識がある学問がある。お前達とは少々違うぞといったような気持ち、そういう高ぶった気持ちがどこの隅にかある。それが、信心のさまたげになる。というわけです。これは学問だけのことだけではないでしょう。ね、
力が段々出来てくる。たとえば、そうですね、器量の良い人はたかぶっとるというわけです。自分は器量がいいと思って高ぶってる。どこにかそういうものがでてくる。
沢山の財産をもって居る。と、結局たかぶっておる。そういう心では人は助からんということ。自分自身は助かっても、ね、人が助からん。
此方は無学でも人が助かっておる。学が身を食うという。ね、たとえば、せっかくの器量をよく頂いておる。その器量が災いをする、せっかくの頭は良い、おかげで学問ができる。その学問がかえって身を食う。沢山の財産をもっている。その財産の為めに身を滅ぼしてしまうといったような事がある、と。
%V此方は無学でも人が助かっておると、自他共に助かっていくところの、わたくしはです。その為にいよいよ皆さん、信心を高めていかなければなりません。同時にいよいよ深めてゆかねばいけません。
信心を高める、段々高くなってまいりますから、段々人に目立ってくるようになる。目立って来るようなおかげを頂かねばならんと同時に、目立って来るようになったら私は用心が必要だと思う。
%Vね、ここでもご信者さんの中に、あの人の信心は素晴らしい、ああ、あの人の話は何時聞いても有り難い。さ、誰れ誰れさんも話をしてくださらんかとゆうようになってくると、目立ってくるわけです。そうするとたとえば、お話ならお話をした後が非常に淋しいという時代があるんです。それは、根がないからです。深さがないからです。自分に十しか力が無かってもお話の中には十二、十五のお話をするわけです。だから、そこん所がさみしゅうなってくる。ね。
誰誰さんとこう言われるように、皆に注目され目立って来たということは、これは、高められた証拠ですその人の信心が。これは有り難いのです。高められるのですから。ね、けども高められたからと言うてです、ね、見下げちゃいかんのです。
私はいつもそれを自分で思うんですけれども、本当に自分が大体慢心げが強いですから、いつもそうゆう、見下げとるつもりじゃないけども、見下げとるような心の状態がある。これでは危ない。
たとえて言うと、椛目の時代は誰れもそう知らなかつた。金光教神愛会と言うても。それは、本部あたりでは皆、あっちが神愛会の会長大坪という人だといったふうに、こちらが知らんでも皆が知ってくれるようになってきた。ね、いよいよこう合楽に移って参りましてから、合楽の教会、しかも、合楽の教会長と言うと、本当にまあ言うなら現在では全国津々浦々の道の信奉者であるならば、合楽の比礼を聞いておられると思うのです。はあ、合楽ですか、大したご比礼だそうですね。と、何処へ行ってもそうゆう挨拶を受けるくらいに、目立って来たんですよね合楽は。
ね、そういうことは、どういうことかと。信心が高められてきたんです。信心が高度になって来たんです。確かに高度になつて来とこう思うんですよね。
%1昨日も或る方がお参りして来た。先日、宮の陣の教会に信徒共励会にまいりました。そしてその、本当に私は合楽におかげを頂いておって良かった。私は合楽以外のどっこも知らなかつた。けどもまあここの教会のような教会が全国の津々浦々に沢山あるであろうけれども、こういうような教会にご縁を頂いておつて良かったと思うたと。合楽にご縁を頂いたと言うことは有難かったと、ま、そこまではいいのですけどですね。
%1もう、いよいよそこがお粗末に見えてきた。いよいよそこの先生が、はあ、あげなこっでと思うようになった。が見方をするようになる。が心の中に蔓延って来た。はあ、合楽はやっぱおかげを頂いてお。合楽の信心は違う、お話をされるときに皆が言われる。ね、世界の名教、世界の名教と言うそのような話が誰誰さんが話の中からでてくる。けどもこの状態この様子を見て世界の名教なんて言えるか。そう感じた。じつに見窄らしいかつこう、まあ、いうなら信心がですよね。
%1信心が見窄らしいようにみえた、そして集まっておるのはお爺さんお婆さんといったような感じ。生き生きしたものがない。その点合楽はおかげ頂いておる、若い方達がもう本当に生き生きとした信心をさせて頂いておる。それは老いも若きも信心を求め、信心のいわば有難い雰囲気を頂かせていただくために皆が生き生きとしている。そういう生き生きしたものを感ずることが出来ない。
%1私達は合楽にご縁頂いておつてよかった。ね、世界の名教という前に本当に私は日本の名教、ね九州の又は連合会、筑水連合会地区にこれが、筑水連合会の信徒会といえば、もう全国でも一番と言われるぐらいに信徒会が熱心な所である。という定評がある。
%1と、聞いておるがです、これが本当に全国で一番と言われるような信徒会の様子状態と思うたら情けのうなつてきた。私はそれを聞きながら、ほんなこっちゃんね、ほんなこっちやんねと私も思うたんですね。ね、これはどういうことかというとですね、成程合楽の信心が高められて来たんです。高度なものになつてきたんです。もう、第一とにかくですね、信者さん方がこうやつて並んでおられますが、合楽のご信者だけはころっとしとる。というふうに見える。
%1第一行儀が違う。いたぶらに聞いとる人もあれば、煙草のみながら聞いとる人もある。向こうむきながら話聞いとるのか聞いとらんのかわからんといつたような人が集まっておる。これがいはば全国で一番といわれる信徒会の会合であろうかと思うたら情けなうなってきた。そのてんは、合楽はおかげをいただいておる。いよいよ合楽がおかげを頂いて合楽の信心が、その時代というかねその場というかね、地域的にもです合楽の信心がいよいよ風靡する時代が来るだろう。
%1そのために、いよいよ私どもは信心を高めていかねばならんなというふうに、これは感じるということはじつに有難いことなんです。ね、ところがいけないことはですね、それがお粗末につまらなく見えて来るというのがおかしいんです。
%1これは私は本当に警戒しなければいけない。私どもが迂闊にしておると、そういうふうな見方をする。ね、人間なそれこそ見かけじゃ分からん。見てくれはよかってもです。中が腐つておつたり、中が間違うとったっちゃいかん。もう、信心ばかりはそうですばい。
私はそれを何時も思うんですけどね、はあこの人は良か信心ができるな。タイプがいい第一。なかなか頭も良さそうな、理解力がある。はあこの人は良か信心ができるじゃろうと思うたらです、確かに間違いです。ほんにこの人がこの信心が分かるじゃろうか、ま、ちょっというならば心配になるような人がどんどん信心のその奥がというかね、深いところに入って行く人が多いのです。
ね、ですからね、本当にみかけではいかんです。話が上手だけじゃいかんです。ね、只一生懸命形の信心が出来ておるから良いとは決して限らんのです。それこそ縁の下の力持ちのように、じいっと力を養うて行つておる人達が私どもの知らんところに有るということです。
ね、私は決っして高められてはいけないというのじゃないです。高められると同時に信心がいよいよ深められていかなければいけないということ。でないとですね、いわゆる頭でっかちになります。いわゆる憚り(はばかり)ながらになります。%Z憚りながら尻尾け(しっぽけ)なしではいけんでしょう。危ない。
高められることは有難い。はあそれこそ生き生きと葉がこうしこっとるけん、どげな良か信心じゃろうか、はあ、合楽のお広前行ったらほんなこて日本一のお広前ちいうが成程立派なお広前だ。これはいうなら、蕪でいうなら葉のようなものです。
その内容がです、本当にあの人はつまらん、はあこげなこつでと見下げて見るようなものが生まれてきておるとするなら、もういよいよ根のない証拠ですから、私どもが警戒しなきゃいけません。ね、これは私どもの心が非常に謙虚であつたり、本当にあいすみませんあいすみませんと、神様の前にお詫びばかり、いわゆる平身低頭地に平伏するような信心がでけておる時はです、どういう例えば人を見ましても、どういう物を見ましても、それをおし頂かなければおれんのです。
ひと雫のお水でも一粒のお米でも、押し戴かねばおられない 見かけじゃない、ね、その人が実に尊く見えてくる、神の氏子としての、言わば見方が出来るようになる。一人一人が、はあ、見かけはしかとうもなくしてあるばってん、どうしてどうして内容というのは大したもん。見かけだおしになっちゃいけない。
私は思うのにです、ね、見かけ大変ようなからにゃいけんということですよ。大体、いけんちいうのじゃない、学問したらいけんというのじゃない。学問もいよいよ身に付けていかにゃならん。ね、できるときにゃしっかり学問を身につけていかにゃいかん。財産もいるね、風貌もようなからにゃいかん。けどもそれがです、根もないもの深さのないもの内容の無いものであってはいけないというだけです。
ね、学問があり、ね、同時にいわゆる学徳神徳が身の徳といったようなものが本当に備わって来たらもう、鬼に金棒です。
私どもでもそれを思うことがございます。本当に学が無いということに、本当に学問が無いということに神様から色々頂きましてもですね、分からないことがある。ね、ですから学問しとったらもっともっと素晴らしい表現力も与えられるであろう。又 、どういう難しいことを頂いても、それが理解出来るだろうけれども理解が出来ない。それを昨日の朝の御理解じゃないけれども、ね、五日も六日もかかる。分からん。いやとうとう頂いても分からないということもある。昨日もそんな事が有りましたんですよ。
%2昨日午後から高橋さんが朝からみえとりました。それで色々御用終わられて、久留米に御用行って頂いて帰ってこっちみえられた。%Jで私は善導寺にお礼にでたいと思うとりましたから乗して行ってもらいたいと思って、まあお茶一服頂いてもろうてから行こうということになった。お茶一服頂いとります時に、急に見とったら私が顔色が悪うなっただろうと思うぐらいに気分が悪くなったんです。
%2お腹が痛んで来るんです。これはもう高橋さん行かれん、だからもう御無礼しよう、そりゃあ良かった私も早う帰らなんからと言よる。ところが私があんまりこう、その苦しそうにしとるもんですから、そんなら先生暫らく私がお腹揉ませて頂こうち、はあそうして下さいと言うてからお腹をこうやつて揉んでもらい、ね、ところがああた益々痛むばっかりです。金光様金光様と言うてからお願いさせて頂きよりましたらですね。%A『バックボ-ン』と頂いた。お声で頂くんです。
%2バックボ-ンちゃどういうような事じゃろうかと私は思う。学が無いからわからん。高橋さんなご承知のごて大学まで出て法学士の肩書きを持っておられるような方ですから、「今ね高橋さん、バックボ-ンち頂いたがどげえな事ですか」「バックボ-ンちゅうことは、あの、背骨という事ですよ」「はあ、そんなら高橋さん、こりゃ上ん方から腹ばっかり押さえたっちゃいかんばい。背骨ば押さえにゃ」と言うて、後で引っ繰り返ってから、背骨を押さえてもらった。背骨をずうっとこう押さえてもろうてから、ちようど胃の上あたりの背骨をこう押さえてもらったら、それこそピタッというごと止まったですけんね。
%2まあ、こりゃおかげ話ですけれどもですね、私の学の無いところを皆さんに聞いて頂いた。そういうふうに不自由致します。
%V%B『ね、神様はですね、英語だけじゃないですよ。もうそりゃ本当に、あの仏教なんかで言う、難しい難しい凡語なんかでお知らせくださる事があるんです。もう本当に、言うならば、私どんじゃ理解の出来ない大和言葉なんかで教えてくださることがあるんです。どういう意味か分かりませんけれどもですね。
まあ結局、私どもが如何に学問も必要であるかと言うことが分かります。学問がありゃもつともっと素晴らしい角度からですねえ、様々な角度からですね頂いたことをもっともっと解り良く、それこそ噛んで含めるように解いてあげる事が出来るでしょうけれど、悲しいかなそれが私に学が無いから出来ませんから、ね、学が有るということは有難いのですよ。
けども学が身を食うようになったら駄目だと。財産を作らにゃいかん。頂かにゃいかん。その財産が為に昂ぶるようになった、人を見下げるようになつたらいけないと言うことだけだ。
そこでいよいよ信心を深めさせて頂いてです。ね、どういう貧乏人の人を見ましてもです、ね金持ちの人が、ね、それを見下げるような態度やら心の状態と言うものが無いおかげを頂かせてもらわなければならない。
そういう意味で只今申しましたようにです。合楽も段々目立ってきた。ね、此処へ来ていよいよびっくりすると言うことは、信心でびっくりするというのでなく、お広前が立派であるという事でびっくりする訳ですよね皆さんが。そこで合楽にご縁頂いている皆がひとつ本気でです。このお広前に相応しいだけの、これだけの高められたもの、目立つものができたのですから、この内容としての信心。
どこの教会に行っても、何処のご信者さんにおうてもです。もう本当に見かけじゃない、もうとにかくその人より何時も自分が下に見える様なおかげを頂いておる時なら間違いない時です。
%3私はですね何時も思うことが有りますけれども、あの、椛目から私のいとこの子です。田中定男さんちゅう。子供の時、脳膜炎を患ってからあんな状態でおります。ま、言うなら馬鹿なら馬鹿、ほんな事言うならそうですたいね。けどもやっぱり母親一人を結構まかなうて行きよります。働いて。
%3しかたむなか、本当に働きも出来ない、いやそれどこじゃない、親の拗ねかじっとる息子よりかよっぽど有り難いです。だから、田中さんに言うんですよ。もう本当にお礼申し上げにゃいかんですよち言うてからですね。私はあの人を見るときにですね、あの人を見る時にいっつも思うんです。
%3私はこの人より、本当に、あの、この人よりもつまらんと言うことを思うことがあるんです。この人だけの働きが出来ない事がいっつもあるんです。「こらっ、定男さん」ちゆうてから馬鹿んごたる言い方する人があるです。中にはですね、定男さんともう友達のようにしてお話をして下さった人がこっちからお礼ば言いたいごたる気持ちが致します。ね、決して人を軽う見ちゃならんです、人を軽う見たらおかげは無し、はっきりおっしゃる。
%3何故、人を軽う見るかというと自分が高められとって中味がないからです。ね、ですから私どもが本当に人の内容というものは形じゃ分からん。私も一辺定男さんのことで、ええ、あの本当に恥入った事がございますよ。
%3或るあの雨の降る夜でした、御祈念が終わったら必ずお茶を致しておりました。久富さんやら四五人の者が、ですからもう、お茶の席にあの人が入って来るとは私が心の中でちょっとこう嫌だなあと思うたんですよ。思ったけれども、さあそこがやっぱ信心ですから、ね、まっ定男さんこっち入んなさいと口では言うたけれども心ではどうも嫌だったんですね。
%3それからお茶が始まりました。皆一番最後にお茶を、もうところがそれこそ立派な点前をしてですね、もうそれこそ実に素朴に素朴にです。その、お茶の頂き方を誰よりも見事にでけたんですから。皆がたまがりましたよ。そしたら神様からですね、%Z%C『侘助』ということを頂いた。
%3もう、お茶をする人達が一番その良い花、椿に有りますですね侘助というこの椿は茶花としては一番と言われとります。もう実に素朴な花なんです。ね、丁度このお茶の席に定男さんがおると言うことは丁度その侘助の様な、もう本当にですねお茶を頂いておるときの感じは確かに侘助の感じでした。
%3もう、この席におっちゃいかんどころじゃなか。もうなんともいえんお茶の席が豊かなものに、素朴なものになったことだけは事実です。
%3そんときに居わあせた者が本当にたまがりました。人を軽う見ちゃならんなと、ね、だから軽う見る時にゃ必ず自分がこうやって上だと思うとる時ですからですね、どういう人であってもですね、ね、そりゃそうだろうけれども、あの人のあそこは素晴らしい、あそこは自分はとても適はん、というぐらいのものが何時も私は感じられるときなら間違いが無いときだと思うです。
%Vね、お互い信心を高めなければなりませんと同時に、深めなければなりません。ね、深めると言うことはどういうことかというと、いよいよギリギリの自分をみきわめるということなんだ、いよいよ自分という者が分かるということなんだ。
自分が本当に分かりだしたらもう、誰よりも彼よりもお粗末な自分であることに気が付くですから、ね、例えば井戸の水でも一間掘った所から出て来る水と五間も十間も掘ったとこから出て来る水は、同じ水には変わりはなくても水の質が違う。
%V冬はもうお湯の様に温い、夏はそれこそ氷の様に冷たい。一間のとこから出て来る水なら生温い水です。ね、冬は冷たあいです。ね、と言うように信心のですね、その深さ、いよいよ信心の掘り下げられた所からでてくるところの有難い、下の底の底から沸いてくるところの有難さ。そういう有難さに私は触れておるときにはです、合楽も素晴らしいな、合楽にご縁を頂いて有難いな、ということと同時に、ここには素朴な、私どもには気がつかない、そういう素晴らしさがどこにかあるのでございますからですね、そこを分からしてもらってですね。そこを頂くという信心というか、とても私どもが適うこっじゃないといったようなものをその人その場から、頂けるような信心を頂きたい。
それが私は、この根の信心、底の信心である。今、ここに(おいさみ)がつきましたね。神様が求め給うものはそれだ、ね、こういうおかげを頂いてくれよと言うこともですけど、それにはそれだけの内容その根というものがです。ね、大事かそれはもういよいよ自分自信が分からせて頂くということ。ね、どんなに形が素晴らしいといやペコペコする、少しお粗末な格好しとるともうその人が馬鹿に見える、もうこういうことではお徳は受けられないということがわかります。
ね、お互いがですね本当にここんところを、人を軽うみな。軽う見たらおかげは無し。ね、%Wあの光妙皇后ですか、千人風呂を作られた有名なお妃がおられましたですね。大変慈悲深い方であった。ね、沢山な病人を集めてお湯に、その浸らせたり、ね、薬草を作って飲ませたり、そういう沢山な人を助けられたんです。ところがですね、ある時にもうそれこそもうそれこそ体中から汁が出るちゅうといったような人が助けを求めてやって来たんです。
%Wね、ところがその光妙皇后はその方のですね、そのもう、こう膿みがでて腫れておるようなところへ自分の口を付けて膿みを吸い出してやられた。
%Wそして、お風呂に入られて綺麗にされた時にはね、その人がそのまま観音さまの姿になられたという、ま、お話があります。ね、そして皇后が観音の徳を受けられたという話があります。どうでしょう、どんなに親切にしておっても最後のその人、一人にですねはあこんな汚かというたら、もうそこにはですね、神様をがっかりさせるような事になってくるのです。何処に神様のおためしがあるやら分かりません。
ね、私どもが高められてから高められてですね、この素晴らしい事なのでございますけども、同時に私どもが深められないと、いよいよお徳を受けるという時にやりそこないます。いわゆる鼻をへし折られるようなことになって来ます。
もうここんところを、特に合楽の人達は、私はじめ、慢心げが強いのです。昨日そういう方のお取次させて頂きながら「ほんなこっちやんの」というて私も聞きよる、もう完全に私も慢心しておるわけですね。はあよそとは違う、はあ合楽は違うというておるわけなんです。ね、それに私もいっぱい慢心しておる。
「いやあ、そげえなこっちゃないよ」と私はその人に言うてやれなかったのが私は残念だつた。とても、とてもやっぱ何十年という経歴を持った教会だからあそこにはあそこだけにしかない素晴らしいものがあるとですよ。見かけはお百姓さんばあっかりじゃけんあそこは、しちゃるばってん実にその内容には立派なものを持っておられる人達がありますよと、ほんに言えてやれなかったことが残念でしたけど。口だけじゃいかん。心からそう思えなければ。
%Vそして私は改めてですね、改まらせて頂かにゃならんなと思うた事でございますけれども、いよいよ合楽の人達は威張るなら威張るだけのものがこう出来てきた。けどもそれではおかげは頂かれん、お徳が受けられない。いよいよ高めると同時にいよいよ深めていかなければならない、いよいよ富士山を目指さなければならないと同時に、ねあの同じ藤でも下がり藤がこうあるでしょう。富士山が藤が藤の花が下へ下へ伸びて行くでしょう、ああゆうものがなからにゃいかん、だからその%Z目指すところはこの富士山であって心は藤の花のようにありたい、まっそんなふうに思うんですね。どうぞ。